山形大学附属博物館
結髪土偶の解説
縄文時代とは?
日本列島に居住する人類が後氷期になり、温暖化した気候のもとで形成された落葉広葉樹林の生態系に適応した狩猟採集経済に立脚した定住生活を行った時代を縄文時代と呼んでいます。土器づくりが始まる15000年前から稲作農耕が始まる2500年前までが縄文時代です。縄文時代は土器の変化に基づき、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分されています。草創期、早期は小規模な集落を形成し、温暖化が進んだ6000年前から始まる前期から中期にかけて数十軒の住居で形成される大規模な集落がつくられるようになります。この時期を代表する遺跡に世界遺産に指定されている三内丸山遺跡などがあります。このような多くの住民が定住集落を形成することができた採集を基本とした経済基盤は小範囲に複数の生態系がある日本列島独自の箱庭的地理環境があったからと考えられています。内陸の縄文人は豊かな堅果類や根茎類に支えられ、海岸部の縄文人は水産資源に支えられ、多様な食料資源を獲得することで生活を支えていました。まさに豊かな自然環境に支えられた生活であったといえます。しかし、縄文時代の後期・晩期になると、地球的規模の小氷期が訪れるなど、不安定な気候の影響で、集落の維持が困難になる集落などもありました。気候の不安定化に伴い、実用的でない道具も増加し、土器も日常的炊事具だけでなく、儀式に用いられたと推定される土器も作られるようになります。
3000年前に日本列島の西端北部九州に大陸から稲作技術が伝えられます。稲作農耕に支えられた時代を弥生時代と呼びます。稲作農耕に加え金属器やその製作技術が伝えられ、農耕複合技術に支えられた新しい食料生産社会は東へと広がります。水田稲作の技術は500年ほどの時間をかけて、日本列島本土北端の青森まで至ります。この500年間は日本列島内に稲作農耕社会と狩猟採集社会が西と東に共存していました。
世界遺産に認定されたことで、ユネスコのホームページにも「北日本の縄文遺跡」が掲載されています。https://whc.unesco.org/en/list/1632/gallery/&maxrows=25
土偶とは?
縄文時代には実用的な道具だけでなく、非実用的なものも作られました。その代表的なものに、土偶があります。粘土で作られ、焼成された土人形(Clay Figurine)です。乳房表現や腹部突起がみられることから、妊娠中の女性を模ったのではないかと考えられています。土偶は縄文草創期(10000年前)から作られ、縄文時代が終わる縄文晩期(2500年前)まで作られます。7500年間も作り続けられたのですから、縄文土器同様、土偶も時代による変化や地域性が認められます。土偶は縄文後期中ごろまでは粘土の塊を用いて作られていましたが、後期後半には中空土偶が作られるようになりました。その代表的なものが青森県亀ヶ岡遺跡出土の遮光器土偶です。人体がデフォルメされて表現されているのが特徴で、器体表面は丁寧に磨かれて、光沢をもつように調整されています。
参考<メトロポリタン美術館>
遮光器土偶を収蔵しています。ネットでみることができます。
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/45532
結髪型土偶とは?
石田遺跡から出土した土偶はその形状、即ち髪を結ったような頭部表現から、結髪土偶と呼ばれています。石田遺跡出土土偶も中空です。そしてこの結髪土偶は縄文時代の最後を飾る土偶でもあるのです。作られた時代は縄文晩期末(2500年前)です。日本列島の北陸地方まで稲作技術が伝わっていたころに相当します。東北地方の縄文人は稲作技術を導入し、狩猟採集生活から稲作と狩猟・採集を組み合わせた生活に代わっていきます。その過度期の縄文人が作った土偶が結髪土偶です。結髪型土偶の分布は列島の東北地方に限られています。
結髪土偶(山形大学附属博物館所蔵)の物語
1921年、山形県に左沢軽便鉄道がつくられました。この工事の際、寒河江市石田遺跡で大量の遺物が見つかりました。当該結髪土偶はその中に含まれており、当時の寒河江市の大地主である安達家が所有することになりました。その後、1924年に山形県郷土博物館に展示されることになりましたが、ここで悲劇が起きました。なんと上半身を構成するパーツだけが博物館に収蔵され、左脚部分はその存在に気づかれず安達家に残されたのです。その後、紆余曲折を経て、上半身は山形大学附属博物館へと収蔵されることになり、「結髪ちゃん」として親しまれ、博物館、延いては大学を代表するマスコットキャラクターの地位を確立しました。
そして、左脚と上半身は、曾田容弘氏(山形大学卒業生)の手により、2018年7月27日に約90年ぶりの再会を果たしました。模様の途切れ方や断面の様子から、左脚がこの土偶のものであると証拠づけられ、修復が検討されました。しかし、ここで大きな問題が発生しました。まず、(1)別の欠損箇所が石膏で復元されており、左脚接合処理をする上で不都合であったこと。そして、(2)資金不足です。
何故(1)のような問題が起きてしまったかと言うと、1951年頃山形大学の学生であった加藤稔氏(山形の考古学の発展に尽力した栄誉ある考古学者)が、横倒れの状態で保管されていた結髪ちゃんを不憫に思ったからです。右胸から背中にかけての欠損を石膏で復元して彩色し、結髪ちゃんが自立できるようにしました。しかし、この心優しき配慮が、左脚接合作業の手間を増やすことになってしまうとは、なんとも残念な話です。ただ、上述の曾田氏が結髪ちゃんと関わることになったのは加藤氏がキッカケであるため、彼もこの物語の重要な登場人物です。
(2)について。博物館の運営費には余裕はなく、左脚接合に係る修復費を捻出できないため、外部資金による修復を選択しました。外部資金とは即ちクラウドファンディング(CF)です。2019年7月22日の12時に始まり、終了日の9月20日までの61日間で目標額の160万円を大きく超える269万5千円が集まりました。山形大学附属博物館のこれまでの実績と信用、そして学芸員たちのオンラインやリアルでの献身的なアピール活動が功を奏したといえるでしょう。
かくして、修復作業が行われることになりました。以前の修復で使用された補填剤と接着剤を可能な限り取り除き、付着していた土などを除去しました。その後、再接合および左脚の接合を行い、欠損部分の一部を樹脂で補填し、補彩を施しました。また、新たに支持台を作成しました。支持台は脇の下に棒を立て、松葉杖のようなかたちです。修復を終えた結髪ちゃんは翌年の9月1日に山形大学附属博物館へ戻りました。
山形大学附属博物館
山形大学附属博物館は、その名の通り山形大学の敷地内にある博物館です。生徒・教職員以外も利用可能です。もちろん展示品の調査や展示には大学が協力しており、今回の結髪土偶に纏わる逸話も山形大学があってこそのものです。この記事を読み、土偶や日本文化に興味を持ってくれた方が居れば、是非とも来日して見にきてください。
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